処刑場も史跡!南千住回向院は歴史を揺るがした有名人の名所

処刑場も史跡!南千住回向院は歴史を揺るがした有名人の名所

更新日:2018/07/03 16:59

Naoyuki 金井のプロフィール写真 Naoyuki 金井 神社・グルメナビゲーター
小塚原刑場は、江戸時代に大和田刑場、鈴ヶ森刑場とともに三大刑場と言われた処刑場で、明治初年に廃止されるまで、ここで処刑された人は約20万人と云われています。

現在、この小塚原刑場跡は史跡に指定されており、“歴史には沢山の血が刻まれている”というセオリー通りの重要な歴史スポットなのです。
今回は、小塚原刑場跡の延命寺と小塚原回向院をご紹介しながら、その知られざる歴史の血を紐解いてまいります。

江戸三大刑場の歴史的な「小塚原刑場」

江戸三大刑場の歴史的な「小塚原刑場」

写真:Naoyuki 金井

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漫画“あしたのジョー”でおなじみの『泪橋』の北にある、荒川区南千住の回向院は、墨田区の回向院と区別するため『小塚原回向院』と呼ばれています。
この“小塚原”とは、江戸時代、大和田刑場、鈴が森刑場と共に、この地に三大刑場と言われた小塚原刑場があった名残です。

江戸三大刑場の歴史的な「小塚原刑場」

写真:Naoyuki 金井

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小塚原刑場での死体は丁寧に埋葬されなかったため、夏になると周囲に臭気が充満し、野犬やイタチの類が食い散らかして地獄のような様相でした。
この有様を見た墨田区の回向院住職が、刑死者を供養するため創建したのが常行堂で、その後、小塚原回向院となり処刑された罪人を葬りました。
そして現在、小塚原刑場跡地には、小塚原回向院から分院独立した『延命寺』があり、罪人を供養するために寛保元年に造立された“首切地蔵”が安置されています。

<基本情報>
住所:荒川区南千住二丁目34番5号
電話番号:03-3807-0897
アクセス:JR南千住駅より徒歩2〜3分

江戸三大刑場の歴史的な「小塚原刑場」

写真:Naoyuki 金井

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“泪橋”で最後の別れをして、“延命寺”のある小塚原刑場で処刑され、“回向院”で埋葬・供養されるという、江戸時代のダークな歴史がここには息づいています。

江戸幕府による弾圧「安政の大獄」

江戸幕府による弾圧「安政の大獄」

写真:Naoyuki 金井

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回向院の墓地は、荒川区指定記念物(史跡)小塚原刑場跡として文化財となっており、完全に一般の方の墓地と分けられています。

江戸幕府による弾圧「安政の大獄」

写真:Naoyuki 金井

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その中で注目すべきは、井伊直弼による“安政の大獄”で処刑された有名人たちで、その中の最たる著名人が明治維新への精神的指導者と云われる「吉田松陰」です。

史跡の一番奥に鎮座していますが、1863年に高杉晋作らによって世田谷区若林に改葬され、その地に松陰神社が建立されたので、ここには当時の墓石だけが文化財として保存されています。

江戸幕府による弾圧「安政の大獄」

写真:Naoyuki 金井

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その他には、開国派として危険視された「橋本左内」、幕末期の儒学者で日本外史で有名な儒学者・頼山陽を父に持つ「頼三樹三郎」といった幕末の重要な思想家たちの墓所があります。
因みに政治犯であった彼らの処刑は、小塚原刑場ではなく伝馬町牢屋敷でしたが、罪人として回向院に葬られました。

明治維新を産み出すきっかけとなった歴史的な弾圧事件を、その中心人物である三人が今に伝える幕末史では重要な墓所なのです。

幕末の歴史的暗殺「桜田門外の変」

幕末の歴史的暗殺「桜田門外の変」

写真:Naoyuki 金井

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安政の大獄で反対派を処罰した井伊直弼に対する不満は、日々膨れ上がり、その不満の頂点となったのが、1860年3月3日、雪に見舞われた江戸城桜田門付近で元水戸藩士によって井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」です。

この時の元水戸浪士達の総指揮者が関鉄之介で、実際の襲撃には不参加でしたが、襲撃後、全国で潜伏中に捕えられ斬罪されたのち、ここ回向院に埋葬されました。

桜田門外の変は、急速に明治維新に向けて動き出す歴史上重要な事件で、ここにはその歴史の証人である関鉄之助をはじめ多くの元水戸浪士たちが眠っています。

幕末の歴史的暗殺「桜田門外の変」

写真:Naoyuki 金井

時代は変わりますが、1936年の昭和のクーデター「二・二六事件」にも関係しています。
ここに埋葬されている磯部浅一は、早くから皇道派青年将校の理論的指導者である北一輝の下に出入りし、皇道派青年将校グループの中心人物として知られ、栗原安秀らとともに二・二六事件の計画・指揮に当たりました。
事件後の軍法会議で死刑を宣告され、1937年銃殺刑に処されたのです。
ここにも時代を動かす歴史が潜んでいます。

江戸・明治の風俗史「悪役4人組」

江戸・明治の風俗史「悪役4人組」

写真:Naoyuki 金井

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このように安政の大獄、桜田門外の変や二・ニ六事件などまるで歴史の教科書の様な寺院です。
その一方で教科書には出てこない有名人もおり、その代表格が“悪役4人組”です。

江戸・明治の風俗史「悪役4人組」

写真:Naoyuki 金井

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明治初期の稀代の悪婦として知られ、最初の夫を毒殺後、各地を放浪しながら悪事を重ねた『高橋お伝』。
江戸時代の侠客で、喧嘩で深手を負った自分の片腕が見苦しいと、子分に鋸で切り落とさせた伝説の持ち主『腕の喜三郎』。
どちらも稀代の大悪人ですが、「腕の…」という名前から腕の墓石と云うのもある意味愛すべき悪党と云えるかもしれません。

江戸・明治の風俗史「悪役4人組」

写真:Naoyuki 金井

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更に江戸時代後期に大名屋敷を専門に荒らした有名な窃盗犯『鼠小僧次郎吉』。
通称直侍と呼ばれた江戸後期の小悪党で、河内山宗俊と共に悪事を働いた『片岡直次郎』。

こういった一癖も二癖もある罪人が、全て小塚原刑場で処刑され、回向院に葬られたのです。なお、鼠小僧次郎吉の本来の墓は墨田区の回向院で、この墓石は義賊に恩義を受けた人々が建てたと言われています。

罪人ではありながら、江戸・明治の風俗史を彩る愛すべきヒールと言えるかもしれません。

日本近代医学の黎明「解体新書」

日本近代医学の黎明「解体新書」

写真:Naoyuki 金井

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ここ小塚原回向院で注目すべきものは、墓所だけではありません。
回向院の壁には、歴史の教科書で見覚えのある、あの前野良沢、杉田玄白の『解体新書』の扉絵がついた記念碑があります。

日本近代医学の黎明「解体新書」

写真:Naoyuki 金井

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それは後の『解体新書』作成のお手本である“ターヘル・アナトミア”の人体解剖図を検証するため、前野良沢、杉田玄白らが小塚原刑場を訪れたことを記念しています。
当時、一般的に人体の解剖は御法度ですが、ここでは特別に刑死者の解剖である“腑分け”が行われており、解剖は“虎松の祖父”と呼ばれる老人が肺、心臓、胃などを正確に切り分けて二人に説明しました。
この様子が“ターヘル・アナトミア”の解剖図と一致していたことから、良沢や玄白はその意を強くし、その後、難解なオランダ語の翻訳に苦しみながら『解体新書』を作り上げたのです。

西洋医学が紹介される前に、人体解剖技術と主要臓器の知識があった“虎松の祖父”の腑分けが、日本近代医学の黎明期の出発点となった歴史的な刑場です。

日本近代医学の黎明「解体新書」

写真:Naoyuki 金井

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このように小塚原回向院は歴史ファンには貴重な寺院です。
また、ここには昭和の大事件“吉展ちゃん誘拐殺人事件”の吉展ちゃんが村越家の墓所に眠っています。境内には吉展地蔵尊が建立されていますので併せてご参拝ください。

歴史的に見学するのは結構なことですが、墓所であることを忘れずに、敬意を持ち冥福を祈りながら参拝することも忘れないでくださいね。

回向院の基本情報

住所:荒川区南千住五丁目33番13号
連絡先:03-3801-6962
アクセス:JR南千住駅より徒歩2〜3分

2018年7月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2015/02/28 訪問

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