処刑場も史跡!南千住回向院は歴史を揺るがした有名人の名所

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処刑場も史跡!南千住回向院は歴史を揺るがした有名人の名所

処刑場も史跡!南千住回向院は歴史を揺るがした有名人の名所

更新日:2015/05/07 12:23

Naoyuki 金井のプロフィール写真 Naoyuki 金井 武蔵国ナビゲーター、歴史探索ブロガー

小塚原刑場は、江戸時代に大和田刑場、鈴ヶ森刑場とともに三大刑場と言われた処刑場で、明治初年に廃止されるまで、ここで処刑された人は約20万人と云われています。

現在、この小塚原刑場跡は史跡に指定されており、“歴史には沢山の血が刻まれている”というセオリー通りの重要な歴史スポットなのです。
今回は、小塚原刑場跡の延命寺と小塚原回向院をご紹介しながら、その知られざる歴史の血を紐解いてまいります。

江戸三大刑場の歴史的な「小塚原刑場」

江戸三大刑場の歴史的な「小塚原刑場」

写真:Naoyuki 金井

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漫画“あしたのジョー”でおなじみの『泪橋』の北にある、荒川区南千住の回向院は、墨田区の回向院と区別するため『小塚原回向院』と呼ばれています。
この“小塚原”とは、江戸時代、大和田刑場、鈴が森刑場と共に、この地に三大刑場と言われた小塚原刑場があった名残です。

小塚原刑場での死体は丁寧に埋葬され無かったため、夏になると周囲に臭気が充満し、野犬やイタチの類が食い散らかして地獄のような様相だったのです。
この有様を見た墨田区の回向院の住職が、刑死者を供養するため創建したのが常行堂で、その後、小塚原回向院となり処刑された罪人を葬りました。
そして現在、小塚原刑場跡地には、小塚原回向院から分院独立した『延命寺』があり、罪人を供養するために寛保元年に造立された“首切地蔵”が安置されています。

“泪橋”で最後の別れをして、“延命寺”のある小塚原刑場で処刑され、“回向院”で埋葬・供養されるという、江戸時代のダークな歴史がここには息づいているのです。

江戸幕府による弾圧「安政の大獄」

江戸幕府による弾圧「安政の大獄」

写真:Naoyuki 金井

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回向院の墓地は、荒川区指定記念物(史跡)小塚原刑場跡として文化財となっており、完全に一般の方の墓地と分けられています。

その中でまず注目すべきは、井伊直弼による“安政の大獄”で処刑された有名人たちです。
明治維新への精神的指導者と云われる「吉田松陰」、開国派として危険視された「橋本左内」、更に著名な幕末期の儒学者で、日本外史で有名な儒学者・頼山陽を父に持つ「頼三樹三郎」といった幕末の重要な思想家たちの墓所があります。
ただし、吉田松陰の墓所は、1863年に高杉晋作らによって世田谷区若林に改装され、明治時代、その地に松陰神社が建立されたので、ここには当時の墓石だけが、文化財として保存されています。
因みに政治犯であった彼らの処刑は、小塚原刑場ではなく伝馬町牢屋敷でしたが、罪人として回向院に葬られました。

明治維新を産み出すきっかけとなった歴史的な弾圧事件を、その中心人物である三人が今に伝える、幕末史では重要な墓所なのです。

幕末の歴史的暗殺「桜田門外の変」

幕末の歴史的暗殺「桜田門外の変」

写真:Naoyuki 金井

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安政の大獄で反対派を処罰した井伊直弼に対する不満は、日々膨れ上がります。
そして、その不満の頂点が、江戸城桜田門付近で元水戸藩士によって井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」です。

1860年3月3日、雪に見舞われた江戸で、江戸城途上の為、彦根藩邸を出発した井伊直弼ら一行約60名が、桜田門外に差しかかった時、総勢16名の元水戸浪士に襲いかかられました。
60名の警護がいながらも、余りに突然であったことと、寒い雪の日と云うことがあり、襲撃の体勢が遅れているうちに井伊直弼は弾丸を受け、駕籠でもがいているところで首をはねられたのです。
この時の元水戸浪士の現場での総指揮者が関鉄之介で、実際の襲撃には不参加でしたが、襲撃後、全国で潜伏中に捕えられ斬罪されたのち、ここ回向院に埋葬されました。

桜田門外の変は、急速に明治維新に向けて動き出す歴史上重要な事件で、ここにはその歴史の証人である、関鉄之助をはじめ多くの元水戸浪士たちが眠っているのです。

江戸・明治の風俗史「悪役4人組」

江戸・明治の風俗史「悪役4人組」

写真:Naoyuki 金井

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この他、桜田門外の変の後に起きた“坂下門外の変”などの討幕運動に関連した処刑者や、昭和に起きた“二・二六事件”の磯部浅一の墓所もあり、まるで歴史の教科書を読んでいる様な寺院なのです。

その一方で教科書には出てこない有名人もおり、その代表格が“悪役4人組”です。
江戸時代後期に大名屋敷を専門に荒らした有名な窃盗犯『鼠小僧次郎吉』。
通称直侍と呼ばれた江戸後期の小悪党で、河内山宗俊と共に悪事を働いた『片岡直次郎』。
明治初期の稀代の悪婦として知られ、最初の夫を毒殺後、各地を放浪しながら悪事を重ねた『高橋お伝』。
江戸時代の侠客で、喧嘩で深手を負った自分の片腕が見苦しいと、子分に鋸で切り落とさせた伝説の持ち主『腕の喜三郎』。
こういった一癖も二癖もある罪人が、全て小塚原刑場で処刑され、回向院に葬られたのです。
なお、鼠小僧次郎吉の本来の墓は墨田区の回向院で、ここには義賊に恩義を受けた人々が建てたと言われています。

罪人ではありながら、江戸・明治の風俗史を彩る愛すべきヒールと言えるかもしれません。

日本近代医学の黎明「解体新書」

日本近代医学の黎明「解体新書」

写真:Naoyuki 金井

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ここ小塚原回向院で注目すべきものは、墓所だけではありません。
回向院の壁には、歴史の教科書で見覚えのある、あの前野良沢、杉田玄白の『解体新書』の扉絵がついた記念碑があります。

これは『解体新書』を作成するにあたり参考にした“ターヘル・アナトミア”の人体解剖図を検証するため、前野良沢、杉田玄白らが小塚原刑場を訪れました。
当時、一般的に解剖などは出来ないのですが、ここでは刑死者の解剖“腑分け”が行われていたのです。
解剖にあたっていたのは“虎松の祖父”と呼ばれる老人で、肺、心臓、胃などを正確に切り分けて説明しました。
この様子が“ターヘル・アナトミア”の解剖図と一致していたことから、良沢や玄白はその意を強くし、その後、難解なオランダ語の翻訳に苦しみながら『解体新書』を作り上げたのです。

西洋医学が紹介される前に、人体解剖技術と主要臓器の知識があった“虎松の祖父”の腑分けが、日本近代医学の黎明期の出発点となった歴史的な刑場なのです。

最後に。。。

このように小塚原回向院は、特に幕末における歴史の重要な宝庫なので、歴史ファンには貴重な寺院です。
また、昭和の大事件であった悲惨な“吉展ちゃん誘拐殺人事件”の吉展ちゃんが、ここにある村越家の墓所に眠っていますが、こちらは墓所ではなく、境内にある吉展地蔵尊が建立されていますので、併せてご参拝ください。

歴史的に見学するのは結構なことですが、墓所であることを忘れずに、敬意を持ち冥福を祈りながら参拝することも忘れないでくださいね。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2015/02/28 訪問

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