写真:菊池 模糊
地図を見る古さとの小さき街の碑に彫られ百とせの後にあらむとすらむ
与謝野晶子がこの歌を詠んでから百年が経とうとしています。
現在、堺市には晶子の予言どおり20基の晶子関係の歌碑・詩碑・立像があります。
その中から、代表的なものを選んで紹介します。
晶子は、明治11年(1878年)、堺県和泉国第一大区(現在の大阪府堺市堺区)に、和菓子商の三女として生まれました。
堺は、中世に環濠をめぐらした商人の自治都市として栄え、戦国大名にも独立対峙した歴史を持ちます。晶子が誕生した明治時代初期にも、堺中心部には伝統ある老舗商人が残っていました。父・鳳宗七は商家の旦那として趣味人であり多くの書籍などを収集しており、晶子は源氏物語などに幼少より親んでいました。
こうした堺の自主独立の風土と家庭環境が与謝野晶子という天才を生んだひとつの要因です。
海こひし潮の遠鳴りかぞへつゝ少女となりし父母の家
写真に載せたこの歌碑は、晶子の生家跡に昭和36年に建立されたものです。
戦災で壊滅的打撃を受けた堺市が復興しようやく文化面に目を向け、晶子没後20年の「晶子二十年祭」を期して堺市内で最初につくられた歌碑です。
この歌碑全体は横長で、晶子の旧姓「鳳」にちなみ、鳳凰が大きく羽を広げた姿を象徴しています。
現在、この歌碑は大道筋という広い道路に面しており、その道の真ん中を路面電車である阪堺電気軌道阪堺線が走り市民からは「ちんちん電車」として親しまれています。
その阪堺線の宿院駅と大小路駅の間の西側に生家跡歌碑があります。やはり晶子文学碑めぐりは、晶子が生まれ育ち23歳まで住んでいたこの場所からはじめるべきでしょう。
なお、この歌碑は、晩年の晶子が書いた自筆巻物より刻字したもので、この歌の初出は「海恋し潮の遠鳴りかぞへては少女となりし父母の家」と少し表現が異なっています。
写真:菊池 模糊
地図を見る生家跡歌碑の大道筋を挾んだ向かい側に、丸太を横に置いたような小さな甲斐町道標があり、側面に晶子の歌が刻まれています。
菜種の香古き堺をひたすらむ踏ままほしけれ殿馬場の道
この歌には、菜の花が香る故郷の殿馬場の道をまた踏みしめてみたいという晶子の気持ちが詠まれています。
晶子が母校の堺女学校(現・府立泉陽高校)40周年記念同窓会に、東京から電報で贈ったものです。晶子は後年に著した随筆の中で堺女学校のことを、殿馬場の学校と表現しています。
この歌碑を見たあとは、少し距離がありますが、晶子の足跡をたどって堺女学校や覚応寺の方へ歩いてみましょう。その際は、大道筋のふた筋東側の山之口商店街のアーケードを北に進んでください。ここは晶子の時代の堺の中心商店街で、晶子は実際にこの山之口筋を通って堺女学校へ通学しました。今は少しさびれていますが、堺名物の刃物店や額縁の店などが並び、晶子の歌の垂れ幕が見られ、晶子に思いを馳せながら歩むことができます。
山之口商店街の中ほどにある開口神社には、平成28年に、晶子の歌碑が建立されました。これもぜひご覧ください。
少女たち開口の神の樟の木の若枝さすごとのびて行けかし
写真:菊池 模糊
地図を見る山之口商店街のアーケードが途切れても、信号を渡ってそのまま北へ進み、菅原神社を右に見て、さらに進むと八百源という老舗の和菓子店があります。ここの肉桂餅は中世南蛮貿易で輸入された肉桂(シナモン)を和菓子に取り入れた堺名物です。直接関係ありませんが、晶子は和菓子商の娘だったので、晶子の実家はこんな感じだったのではと思わせる古い店構えです。
この八百源の次の北の角を東に曲がって進み、二つ目の角を北に曲がると材木町東の信号のある交差点があります。この交差点をまっすぐ北側の細い道を進むと、右側に大きな寺院である本願寺堺別院が見えてきます。
この寺は北の御坊とも呼ばれ、室町時代に堺御坊として蓮如が布教活動を行った場所で、晶子が生まれた明治時代初期には堺県庁が置かれていました。正面入った本堂左横に晶子の有名な歌碑があります。
劫初より作りいとなむ殿堂にわれも黄金の釘ひとつ打つ
この歌は晶子の創作活動の熟成期に詠まれたもので、晶子の歌人としての自負と創作信念が表現されています。
歌集『草の夢』の巻頭を飾った歌で、晶子の自筆を刻字したものです。
戦災の焼失を逃れた本願寺堺別院の本堂建物にふさわしいといえるでしょう。
写真:菊池 模糊
地図を見る本願寺堺別院を見学したら、来た道をそのまま北へ進むと、突き当たりT字路右側(東側)すぐに覚応寺があります。
写真を御覧下さい。ここにある晶子の歌碑は傑作で特に美しいものです。
その子はたちくしにながるヽくろかみのおごりの春のうつくしきかな
これは晶子自筆の扇面より刻字されたもので、扇型に草書体で「散らし書き」されています。
この歌は晶子23歳の時に発表された有名な歌集『みだれ髪』の代表的な作品です。
晶子が短歌の創作活動をはじめた当時、覚応寺には、跡取り(後に住職)の河野鉄南がいました。彼は文学青年で、与謝野鉄幹とは少年時代からの竹馬の友であり、晶子とは浪華青年文学会堺支会を通じて親交がありました。その後、東京で「明星」を主宰した鉄幹に晶子を紹介し、二人の仲人と自認していました。
こうした縁から、現在も覚応寺では、晶子の命日5月29日に晶子を偲ぶ「白桜忌」が開催されています。
なお、現在の覚応寺は非常に小さい寺で、個人の家のような雰囲気です。したがって、見学する際は失礼のないように節度を守り静かに見せていただきましょう。入口正面に歌碑がありますので分かりやすいです。
覚応寺の歌碑を見学した後は、来た道を南側に引き返します。そして材木町東の信号のある交差点に出たら、左側(東側)に曲がります。しばらく行くと道の右側に「とさのさむらいはらきりのはか」と書かれた堺事件を示す背の高い道標があり、その後方にある新しい雰囲気の寺が妙国寺です。
妙国寺は戦災を受け再建されたものですが、織田信長の大蘇鉄伝説や幕末の堺事件ゆかりの地で、晶子の「故郷」と題された詩碑もあります。できれば、この妙国寺も見学してください。
写真:菊池 模糊
地図を見る前段にあります「とさのさむらいはらきりのはか」の道標を南へ曲がり進みます。すぐに大きな学校の塀に突き当たりますが、これが泉陽高校で、晶子の母校であり当時は堺女学校と呼ばれていましたた。
ここには、有名な「君死にたまふことなかれ」の詩碑があります。泉陽高校には西側の門から入ると泉陽会館の左側奥に詩碑が立っています。授業に差し支えなければ見学できますが、休日等で入校できない場合もありますので、事前に連絡するようにしましょう。
あゝをとうとよ 君を泣く
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや
この詩は日露戦争に従軍した晶子の弟・籌三郎への思いを詠んだもので、時代や国を超えて人々の心を打つ作品です。
しかし、明治38年の発表当時は大きなセンセーションを巻き起しました。
大町桂月は「国家観念を藐視したる危険なる思想の発現なり」と非難しましたが、晶子は「当節のやうに死ねよ死ねよと申候事、又なに事にも忠君愛国などの文字や畏おほき教育勅語等を引きて論ずる事の流行は、この方却て危険と申すものに候はずや――」と反論しました。
晶子の勇気と真実を見抜く優れた洞察力に驚くばかりです。
この泉陽高校の歌碑を見たあとは、東南側にある堺の環濠跡を埋め立てた土居川公園を抜け、さらに東南方向に歩を進め、堺市の中心駅である南海高野線堺東駅に出ます。
もし時間の余裕がある場合は、堺東にある堺市役所21階の展望ロビーに行ってみてください。堺市全体が展望でき、大仙公園や仁徳天皇陵古墳などを見渡すことが出来ます。
この大仙公園には晶子の歌碑が二基ありますので、下記メモ欄から「堺市で与謝野晶子の歌碑を辿り歴史ロマン散歩 大仙公園から晶子立像へ」の記事をお読みいただき、さらなる晶子の世界を訪問してください。
与謝野晶子は、偉大な歌人で、生涯に短歌5万首を詠んだとされます。晶子の歌は、難解な面もありますが格調に富んでおり、故郷を詠んだ歌は心に沁みるものばかりです。中でも、歌碑に刻まれた歌はどれも分かりやすい名歌なので、愛唱しながら堺の町歩きを楽しみましょう。
晶子の、女性の自由と自立をめざした評論活動や、「君死にたまふことなかれ」の詩に書かれたことは、現代では誰でも納得するきわめて当然の内容です。しかし、晶子の生きた時代には、理解されない場合が多く、数々の非難中傷を受けました。
しかし、今は26基の歌碑や詩碑が建立され、千利休と並ぶ堺が誇る偉人として「さかい利晶の杜」がオープンするまでになりました。
ぜひ、堺にある晶子の文学碑をめぐり歩き、文化の香に親しむとともに先覚者晶子の生き方を偲んでください。
この記事の関連MEMO
- PR -
このスポットに行きたい!と思ったらトラベルjpでまとめて検索!
条件を指定して検索
(2024/10/9更新)
- 広告 -