写真:古都の U助
地図を見る壬生寺への出入り口は境内東側に表門がありますが、こちらは門の内側に印象的な千体仏塔が見える南門です。壬生寺というと新選組関連のお寺、そして壬生狂言で知られていますが、実は石仏の寺とも言われています。
この千体仏塔はミャンマー式の塔「パゴダ」を模していて、壬生寺の創建千年を記念して平成元年(1989年)に作られた物です。
近くでよく見るとこの塔は千体もの石仏で作られています。
通常でもかなりなインパクトがありますが、毎年八月の壬生寺万燈会では明かりがともされ、とても幻想的な雰囲気となります。
写真:古都の U助
地図を見る壬生寺の提灯がかかるこちらの建物は阿弥陀仏を祭る阿弥陀堂であり、この建物の地下は壬生寺歴史資料館となっています。
さらにこちらの建物が、近藤勇胸像、芹沢鴨らの墓のある壬生塚の入り口となっています。
時間に余裕があるに越したことはないですが、阿弥陀堂が閉まるのが夕方16時半なので、遅くとも16時頃には到着できるよう気をつけて頂きたいと思います。
(壬生寺歴史資料館大人1人:200円、壬生塚参拝1人:100円/2015年3月現在)
壬生寺まで来られる幕末ファンの多くの方の目的は壬生塚の近藤勇像に対面する為、といっても過言ではないかと思います。
近藤勇は慶応4年、満35歳で板橋の刑場の露と消えましたが、その後首は京都三条河原にさらされた後、何者かに持ち去られ行方が分からなくなっています。
近藤勇の首の行方として有力な説は、新選組同志が奪還し、縁のあった京都誓願寺の僧侶に託し、その僧侶が愛知県岡崎市の法蔵寺に着任したため徳川家康とも縁の深い法蔵寺に埋めたという説や、東本願寺が引き取り東大谷に埋葬したというような説も伝わります。
近藤勇の胴体については勇の兄の宮川音五郎とその子勇五郎によって引き取られ、東京都三鷹市の龍源寺に埋葬されたという説が有力視されています。
壬生塚の胸像左横には遺髪塚があり、近藤勇の髪が祀られています。
写真:古都の U助
地図を見る壬生塚にある芹沢鴨と平山五郎の墓です。
とても綺麗なお墓ですが、現在の物は芹沢鴨ら150回忌にあたる2012年に、古い写真などをもとに復元された物です。
文久3(1863)年2月、江戸から将軍警護の名目で上洛した浪士組は京都・壬生村一帯に分宿し、浪士組を結成した清河八郎達が江戸に帰った後も近藤勇、芹沢鴨らは京都に残り、京都守護職の会津藩主・松平容保の庇護のもと新選組を結成、京都の警護に当たりました。
しかし芹沢鴨は数々の金銭トラブルや乱暴狼藉を働き、文久3年9月16日(18日とも)島原の角屋での宴会から泥酔して壬生・八木邸へ戻ったところ、深夜に襲われ暗殺されたといいます。
一緒に寝ていた平間重介と女性2人は逃亡したそうですが、芹沢とともにいた愛妾のお梅は芹沢と平山五郎と共に巻き込まれ亡くなってしまったそうです。
実際は新選組による静粛とされていますが、事件は長州藩士の手によるものとされ、近藤勇が喪主となり盛大に葬式も行われたと記録にあります。
写真:古都の U助
地図を見るこちらも壬生塚の見所の1つ、昭和30年リリース、三橋美智也氏のヒット曲「あゝ新撰組」の歌碑です。
こちらはかたわらにある投入口に100円玉を入れるとメロディーが流れるという楽しい仕組みです。
他にも壬生塚には勘定方の河合耆三郎の墓や近藤勇も含めると計11名の新撰組隊士の墓や供養等があり、ファンにはたまらない場所といえます。
最初に屯所が置かれた壬生寺は文久3(1863)年2月から慶応元(1865)年4月までの約2年の間、新選組が過ごした幕末ファンには聖地ともいえる場所です。
近隣には八木邸以外は常時見学できるところは少ないのですが、前川邸、光縁寺、新得禅寺など徒歩圏内に多くのゆかりの場所が現存するので、ぜひ合わせて巡っていただきたいと思います。
注:新選組は新撰組という記述もあり、どちらが正しいという事もないのですが「ああ、新撰組」の歌名は撰、壬生寺では選の字を主に使用されています。
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(2024/9/17更新)
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