貞観8年(866年)、勅命により難波高津宮の遺跡を、その地に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったことにはじまる古い歴史をもつ高津宮(こうずぐう)。
今は高層ビルの谷間となっていますが、東西に走る千日前筋をはさんで南に生国魂(いくたま)さん、北に高津宮が鎮まりかえっており、双方とも豊臣秀吉が大坂城を築城する際、強引に遷座させられたものです。
ことに高津宮は、現在地にあった比売古曽神社(ひめこそじんじゃ)の境内に遷座し、主客転倒して主祭神を仁徳天皇とし、この新羅の姫は当社の地主神として摂社におさめられました。
しかし、大戦末期の大阪大空襲によって神輿庫を残して社殿が全て焼失してしまい、再建されたのは昭和36(1961)年10月のことです。
この地は、難波の都が一望できる見事な景観ゆえに、古くから大坂町人の文化の中心として賑わいをみせ、境内の参集殿は「高津の富亭」と名づけられ、五代目桂文枝一門がかかわる落語の寄席や文楽などが盛んに催されていました。
そんなことから境内には桂文枝の石碑が、近くには国立文楽劇場もあります。
この神社では近年「縁結びパーティー」が催され、参加者の4人に1人がカップルとなり、その後かなりの確率でご成婚を果たしたことから、それが口コミで広がり恒例となったようです。
また、境内にはそうした趣向を支える左右の階段を登りその頂部でピタリ出会うと相性が良いとされる相合坂や、離縁状の三下り半を模した階段もあり、近年はそれも悪縁を断つ坂としてひそかにもてはやされています。
こうした時代とともに、男女の機微に敏感な神社に変貌を遂げてきたのは、為政者として多くの業績を残した仁徳天皇が、私生活では生涯皇后の激しい嫉妬に悩まされたことと関係があるのかもしれません。
写真は悪縁とおさらばするという旧縁切り坂。
比売古曽神は、新羅の王子・アメノヒボコを振って難波に移り住んだ姫神です。ヒボコ渡来の伝承は彼女を追って日本へ来たと古史古伝に語られています。
比売古曽神(ヒメコソシン)は、現在本殿と神輿庫の間の小祠にひっそりと祀られています。
この神社が複雑で強烈なオーラを発しているとすれば、八幡神宮に我が国の神代の皇祖神話が収斂する以前の神々がここに群雄割拠していることに由来すると考えてほぼ間違いはありません。
写真は小さな鳥居と小祠で本殿脇に祀られている比売古曽神社(左)と桂文枝の石碑(右)。
菊のご紋を戴く神宮でありながら、歴史の流れに揉まれて錯綜し、乱れた神々の系譜は、神社最奥部の谷間にひっそりと祀られている奇岩累々の陰陽石の神域に来れば一目瞭然となります。
この谷末社の祭神は白菊(草野姫命)、千年(大市姫)、常高(大山祇)の三大神で、いずれも国津神系の神々。
この秘所めくおどろおどろしい異空間の不気味さは、昼間はともかく、夜に訪ねるとちょっとひるみます。
こんなバラエティに富んだ神宮が、今も大阪ミナミの心臓部に近いところに広域を占め、健在であるということが、難波人の心意気を示していているようでたのもしく思えます。
写真は左に陽石、右に陰石の自然石を配置した谷末社の人為的な磐座。
古代より商都として栄えた難波は、権謀術数の支配してきた地。生者と死者が隣り合わせに暮らす土地柄です。
生国魂神社や高津宮の界隈はまさにそのボーダーを成すところ。ここから谷町にかけては、実に多くのラブホテルや寺社が立ち並び、墓でみたされています。そのそれぞれに固有の由緒と物語があり、じっくりと時間をかけて歩いてみると新鮮な驚きに満ちています。
この高津宮を皮切りに、是非大阪の深部へと降り立ちスリルを味わってくださいませ。
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