高杉晋作ゆかりの地めぐり〜山口県・下関市で散った若き志士を思う

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高杉晋作ゆかりの地めぐり〜山口県・下関市で散った若き志士を思う

高杉晋作ゆかりの地めぐり〜山口県・下関市で散った若き志士を思う

更新日:2015/04/08 10:40

村井 マヤのプロフィール写真 村井 マヤ 中国・九州文化的街並探検家

山口県下関市は、本州最西端で、赤間関(略・馬関)と呼ばれ、西日本の国内貿易の拠点として栄えました。また、壇ノ浦の戦い、「巌流島の決闘」、幕末においては、米・仏からの攻撃で街の一部は焼けました。そんな下関には、歴史好きには堪らない史跡が多数あります。今回は、下関で維新の第一歩を踏み出し、恋人と出会い、生涯を閉じた高杉晋作を偲ぶ旅です。ゆかりの地を巡りながら、激しく散った青春に思いを馳せてみませんか?

若き理想に燃えた晋作ゆかりの長府・功山寺

若き理想に燃えた晋作ゆかりの長府・功山寺

写真:村井 マヤ

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下関市長府にある晋作ゆかりの場所は、写真の銅像がある功山寺です。長府は、長州萩藩の支藩で、長府藩始祖毛利秀元は毛利元就の孫で毛利輝元の養子だった人物。毛利家の防長移封後に長府藩主となったのです。
毛利家は決して一枚岩ではなく、支藩との衝突もあったのですね。

萩宗藩と長府藩の対立は、晋作や井上馨、伊藤博文らの下関直轄領計画で3人の暗殺計画が持ち上がるほど深刻なものに。この暗殺計画を知った3人は、それぞれの違う場所で潜伏するはめになりました。結局、晋作たちの計画は挫折してしまいます。

その後、萩において起こっていた保守派(俗論派)による改革派(正義派)家老らの相次ぐ粛清・処刑に危機感を覚えた晋作は、元治元年12月15日の深夜、この功山寺に潜居中だった三条実美らを訪ね「ただいまより長州男児の腕をお目にかけ申す」と甲冑を身に着け挨拶し、武力によって萩藩の保守派を打倒することを決意表明しました。

この時、晋作に同意したのはわずか80人。高橋隊長の遊撃隊と伊藤隊長の力士隊のみ。

その後、80人を率いて下関新地に向かい萩藩の出先機関会所を襲撃。この晋作の行動に対して、豪商・豪農らから軍資金が提供され始めてようやく奇兵隊などが呼応します。そして萩藩の鎮圧軍と晋作たちの反乱軍による内戦が始まりました。この高杉晋作の挙兵は、明治維新後「馬関(下関)義挙」と呼ばれました。

功山寺には、長府毛利家歴代藩主の墓や、坂本龍馬と関係の深い三吉慎蔵のお墓もありますよ。鎌倉時代創建の名刹で、唐様建築の美しい仏殿は国宝です。歴史深い古刹へ是非足を運んでみて下さい。

高杉晋作活躍の出発点!奇兵隊結成の地〜商人白石正一郎との出会い

高杉晋作活躍の出発点!奇兵隊結成の地〜商人白石正一郎との出会い

写真:村井 マヤ

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文久3(1863)年6月に奇兵隊は、白石正一郎邸(写真は旧宅跡)で結成されました。荷受問屋で富をなした白石正一郎(1812-1880)は、52歳の時に晋作に出会って、意気投合しました。維新の志士への援助をし、自ら勤王商人と呼ばれるように奇兵隊の隊士となって晋作を支えました。維新後は、晋作と出会う前からあった借金もあり、商いをやめ、赤間神宮の宮司として生涯を終えました。

52歳の白石と、まだ24歳くらいの血気盛んな若者だった晋作との年齢を超えた出会い。白石は、晋作に対してどんな夢をみたのでしょうか・・。そんなことを想像しながら、史跡めぐりを楽しんで下さい。

白石正一郎旧宅跡は、現在は中国電力のビルが建っています。下関駅西口から歩いて5分。

高杉晋作が身を隠した井戸もある?!あの名優が生まれた町

高杉晋作が身を隠した井戸もある?!あの名優が生まれた町

写真:村井 マヤ

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先ほどご紹介した白石正一郎旧宅跡から、今度は伊崎町方面・下関医療センター方面にバス通りを歩けば間違えませんよ。「竹崎」のバス停を過ぎたあたりを今度は左へ、さらに左に行くと竹崎渡船場などがあり海になります。
この竹崎渡船場を海沿いに六連島(むつれじま)方面に500mほど行きますと「御旅所(おたびしょ)」があります。この御旅所は、安徳天皇の御遺体が中島家によって引き上げられた際にしばらく安置された場所です。

晋作ゆかりの「ひょうたん井戸」は、海の方へは行かずに、少し狭い昔ながらの風情が残る民家や商店が並ぶ方へ入って下さい。
うろちょろしていますと、青い看板に白い字で、「ひょうたん井戸」の場所を示す案内板があります。

この「ひょうたん井戸」に、長府藩士らに夜襲をうけた高杉晋作が丸一日潜伏し、これがもとで体を壊したと言われています。こちらの井戸に行かれる際は、個人の敷地付近ですので時間帯・マナーには気を付けて下さいね。これは、どの史跡にも言えることですけど・・。

さて、この井戸のある伊崎町は、かの有名な俳優さんの故郷でもあるのですが、どなたかご存知ですか?名優・故松田優作(1949-1989)さんです。下関出身はご存知の方も多いのではないでしょうか。でも伊崎町とは?!どんな少年時代を過ごしたのでしょうね・・。そんな想像も楽しいでしょう。

高杉晋作終焉地・・27歳の若く激しい生涯を散らす

高杉晋作終焉地・・27歳の若く激しい生涯を散らす

写真:村井 マヤ

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高杉晋作は、慶応2(1866)年の「幕長戦争」のさなかに肺結核を患い10月には病状が悪化して、桜山神社近くに「東行庵」と名付けた小屋で、恋人おうのと野村望東尼の看病を受け静養していましたが、妻の雅子が下関に来ることになり、上新地の林算九郎宅に移りました(写真は林家離れ家跡地)。

雅子の看病のかいもなく慶応3(1867)4月14日、27歳8か月(文献によっては29歳)の熱く、激しい生涯を終えました。

高杉晋作の遺骸は、下関市吉田町の清水山の麓に葬られました。そこで、恋人おうのは「梅処」と号し、現在「東行庵」と呼ばれている庵室を建立して(伊藤博文らがおうのに贈ったもの)、ここで晋作の菩提を弔いました。この東行庵という居号は、後述する桜山の療養地から受け継いだものです。

高杉晋作が療養した場所〜志士の招魂の地桜山神社へも・・

高杉晋作が療養した場所〜志士の招魂の地桜山神社へも・・

写真:村井 マヤ

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慶応2(1866)年7月、幕府軍との戦いのさなか、高杉晋作は肺結核に倒れます。さらに10月頃にはかなり病状が悪化して、桜山神社近くの場所(写真の碑付近)の「東行庵」と名付けた小屋で、静養しました。今では、個人宅の塀の一部に碑が建てられており、昔の面影はありません・・。

この東行庵があった場所へは、「厳島神社」を目指して下さいね。この厳島神社の鳥居の脇あたりに「萩藩新地会所跡」の碑が立っており、その隣に「高杉晋作療養の地」という案内板が出ています。ちなみに、この「萩藩新地会所跡」は、晋作たちが萩藩の俗論派(保守派)打倒のために最初に襲った場所で、いわば決起の場所と言えます。歴史的にも大きな転機となった場所ですよね。

療養の地からさらに歩いて15分の所には「桜山神社」もあります。明治維新の歴史を考えると是非訪れて欲しい場所です。こちらは、戦いで亡くなった奇兵隊同志の招魂場として開かれました。社殿の完成は慶応元(1865)年8月6日のことでした。社殿裏には、吉田松陰の霊標を前列中心にして左右に高杉晋作と久坂玄瑞、そのほか合わせて、396名の高さ1mほどの角材型の霊標が立ち並んでいます。その中には、苗字を持たない庶民の若者も多くいました。

熱く気高く散った青春を偲んで、下関の町を歩く

下関観光の際、是非ご御利用になって欲しいのが、バスでの旅です。今回ご紹介する高杉晋作ゆかりの地巡りは特に、バスは必須!もちろん車で回られてもよろしいですが、駐車場の確保が難しい場所もありますので、便利な「しものせき観光1日フリー乗車券」が大変おススメです。詳しくは、下記MEMOをご覧くださいね。

さて、最初の長府から下関駅西口側への旅はいかがでしたか?唐戸や壇ノ浦だけではない下関の魅力が沢山です。静かだけど、どこかしこに維新の香りが漂っています・・。幕末ファンならずともきっと楽しめる旅になることでしょう。

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/03/23 訪問

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