岩谷堂に掘られた洞窟は、いわゆる「やぐら」と呼ばれる横穴式の墓です。やぐらは鎌倉時代の中期から室町時代の前期にかけて、当時幕府の置かれた鎌倉を中心に流行した武士階級のお墓のことです。
千葉県では富津市、館山市など、房総半島の南部でしばしば確認されていますが、岩谷堂については、造られた時期や彫られた仏像の制作年代などは、はっきりしていないそうです。
岩谷堂は岩壁の上部など、一部立ち入り禁止の場所もありますが、比較的足場もよく、仏像に出会うのに苦労はしません。
岩谷堂の仏像はいわゆる磨崖仏とよばれる、岩壁に彫刻された仏像です。現状風化が著しく、尊名を特定できるものはそう多くありません。しかし、なんといっても圧倒されるのは、その数の多さです。すべて数えるのは至難のワザ・・・。いったい何体あるのやら・・・
磨崖仏は日本では奈良時代の後半からみられるようになり、滋賀県狛坂(こまさか)磨崖仏、栃木県大谷寺磨崖仏中の千手観音菩薩立像などは、その代表的な作例として知られています。平安時代になると、大分県臼杵(うすき)磨崖仏など国東半島を中心とした一群が知られ、地方に優れたできばえを示す作例がみられます。
像は像高115.0cm。髻(もとどり)を高く結いあげ、腰布を着け、左手は垂らして、右手を顔の高さまで上げ、金剛杵(こんごうしょ)を持っています。そして、腰をやや右につき出し、両足先を外に開いて立っています。
尊名ははっきりしませんが(おそらく仁王像か)、まさに岩谷堂の守護神ともいえる存在感を示しています!!いかにも悪い運気を追い払ってくれそうですね!!
現在岩谷堂に残る文化財から、遅くとも17世紀後半には信仰の場として機能していたことが知られます。写真の石柱からは、岩谷堂は四国、西国、板東の観音霊場の本尊を、一ヶ所にあらわしたものとして造立されたことがわかります。
江戸時代になると人々の間で西国、板東などの三十三観音霊場を巡拝することが流行しました。特に西国三十三所、板東三十三所、秩父三十四所は合わせて百観音と呼ばれました。
そんな百観音を巡ることができない人のために、岩谷堂は造られたのでしょう。まさに超便利で効率的な巡礼スポットです!
岩谷堂の磨崖仏は、その作風から多くが江戸時代に彫られたものと考えられますが、保存状態があまり良くなく、はっきりしません。なかには古そうな仏像もありますが、まだまだ多くの謎を秘めています。
歴史や仏像の好きな方は一度訪れてみてください。きっと御利益がもらえるはずです!!
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(2024/12/14更新)
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