大坂夏の陣から400年!「八尾・若江の戦い」の地をめぐる

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大坂夏の陣から400年!「八尾・若江の戦い」の地をめぐる

大坂夏の陣から400年!「八尾・若江の戦い」の地をめぐる

更新日:2015/04/08 18:55

乾口 達司のプロフィール写真 乾口 達司 著述業/日本近代文学会・昭和文学会・日本文学協会会員

2015年は、豊臣家の滅亡を招いた大坂の陣(夏の陣)からちょうど400年の節目の年に当ります。しかし、言及されるエピソードは真田幸村ら豊臣方の諸将の討ち死にを招いた天王寺・岡山合戦や、大坂城の落城をめぐるものが大半であり、それ以外の合戦に触れられる機会はほとんどありません。今回は一般にはあまり知られていない「八尾・若江の戦い」ゆかりの地をめぐり、往時の合戦の様子をご紹介しましょう。

東西両軍が激突した八尾・常光寺

東西両軍が激突した八尾・常光寺

写真:乾口 達司

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大坂夏の陣が発令されたのは、1615年4月のこと。豊臣方が召し抱えた浪人たちの退去や豊臣家の移封といった要求を豊臣方が拒絶したことで、徳川幕府は豊臣方との最終決戦を決意。豊臣方も徳川方の動きを察知し、先手を打って大和郡山城を攻略するなど、防衛体制の強化をはかります。5月に入ると戦場は大阪平野に拡大。道明寺など河内南部で東西両軍の戦端が開かれます。「八尾・若江の戦い」はこのような情勢下ではじまりました。

河内方面に進軍してきた東軍(徳川方)を迎え撃つため、長宗我部盛親率いる西軍の一部が現在の大阪府八尾市付近に進出。東軍の先鋒・藤堂高虎率いる軍勢と激突します。合戦は写真の常光寺周辺で繰り広げられ、最終的に藤堂勢は壊乱。勝利した西軍は大坂城へ退却しました。

合戦の後、藤堂高虎は、常光寺の住職であった以心崇伝に対して、討ち死にした家臣たちの戒名つきの位牌を作るように求めました。家臣たちの位牌は、現在、阿弥陀堂にまつられていますが、大坂城から遠く離れた八尾の地でも激しい戦いがおこなわれたことをはじめて知る方は多いのではないでしょうか。

若江の戦いで討ち死にした西軍の武将・木村重成の墓

若江の戦いで討ち死にした西軍の武将・木村重成の墓

写真:乾口 達司

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八尾の合戦が繰り広げられていた同じ頃、八尾の北方、若江の地(現在の東大阪市若江本町周辺)でも両軍が激しい攻防を繰り広げていました。西軍の主力は木村重成の軍勢。若江の地に着陣した木村勢は藤堂勢と対峙。一時は藤堂勢を敗走させたものの、藤堂勢とともに東軍の先鋒をつとめていた井伊勢が参戦したことで形勢は逆転。激戦の末、重成は討ち死にし、木村勢は壊滅しました。

写真は当地に残る重成の墓。墓前には花が手向けられており、重成の墓がいまでも大切にまつられています。

蓮城寺・位牌堂にまつられている重成の肖像

蓮城寺・位牌堂にまつられている重成の肖像

写真:乾口 達司

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母親が豊臣秀頼の乳母であったことから、重成は幼少時より秀頼の小姓として仕えていたとされます。夏の陣にさきがけておこなわれた冬の陣では今福砦の戦いで活躍し、その武勇を全国にとどろかせています。当時、重成の本陣が置かれていた地には、現在、蓮城寺が建っており、その境内には重成の肖像画を安置した位牌堂も存在します。蓮城寺の北東には重成の石像も安置されている上、東大阪市若江南町1丁目には「若江木村通」という名の交差点も存在します。先に紹介した墓所と同様、重成がいまでも地元で篤く敬われていることがうかがえますね。

木村勢と戦い、戦死した東軍の武将・山口重信の墓

木村勢と戦い、戦死した東軍の武将・山口重信の墓

写真:乾口 達司

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重成の墓と恩智川を挟んだ対岸には、山口重信の墓も残されています。重信は井伊勢に参加していた東軍の武将。重信は旧領の回復を願って東軍に参戦していましたが、若江の戦いで戦死。しかし、その死によって、重信の宿願は後にかなえられたのでした。重信のお墓は、1647年、重信の三十三回忌に際して建てられました。両軍の武将の墓が恩智川を挟んだ両岸に残されている点は当時の合戦の様子を伝えたものでもあり、東西両軍が激しい戦いを繰り広げた若江の戦いを象徴する構図であるといえるでしょう。

あわせて見学しよう!南北朝時代以来の歴史を残す若江城跡

あわせて見学しよう!南北朝時代以来の歴史を残す若江城跡

写真:乾口 達司

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若江の戦いの舞台となった当地を訪れたら、南北朝以来の歴史を有する若江城跡も訪ねましょう。現在の東大阪市立若江小学校の近くには写真の石碑も建立されていますが、発掘調査の結果、若江城はこの付近一帯に存在したと推定されています。

1382年、後に室町幕府の管領となる畠山基国によって築かれた若江城は、以後、河内国の要衝としてたびたび兵乱の舞台となりました。1573年、織田信長によって京を追放された室町幕府第15代将軍・足利義昭が羽柴秀吉の警固を受けて当地に入城したことでも知られています。お城自体は1583年に破却されますが、大坂夏の陣に際して、東西両軍が当地で激しい攻防を繰り広げた背景に、かつての若江城が背負っていた地政学的な重要性があったことは充分に考えられますね。

おわりに

一般には余り知られていない「八尾・若江の戦い」がどのようなものであったか、その一端をご理解いただけたのではないでしょうか。豊臣家の滅亡から400年の節目の年を迎える2015年、当地を訪れ、かつての合戦の歴史に思いを馳せてみることをお勧めします。

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/04/17 訪問

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