写真:山崎 ナオ
地図を見る東経129度、北緯32度、長崎港から18.5kmの沖合に位置する海底炭鉱人工島「端島(はしま)」は、またの名を「軍艦島」。これは大正時代に日本海軍の戦艦「土佐」に似ていることから由来します。「アメリカ軍が軍艦と間違えて魚雷を発射した」という噂話が広まったそうです。この真意は定かではありませんが想像すると少し面白いですね。
総面積6.3ヘクタール、東西160m、南北480m、岩礁の高さ海抜47.7m。周囲を1.2kmおよそ30分ほどで1周できます。もともと小さな岩礁だった島が幾度となく埋め立てられ今の形になりました。1960年の最盛期の人口は5300人を超え、人口密度にして現在の東京の約10倍。この小さな島に大勢の島民が暮らしていた様子を想像するだけで驚異を感じます。
写真:山崎 ナオ
地図を見る軍艦島にて石炭が発見されたのは今から200年以上も前、当時は幕府が管理していましたが1890年(明治23年)に三菱社が買い取りました。軍艦島は良質な強粘炭が採れ、日本の近代化を支えてきた炭鉱のひとつでした。当時「黒いダイヤ」といわれていた石炭を最盛期には年間約41トンを出炭し、まさに此処は宝島でした。ドルシックナーから続くベルトコンベア跡はまるで遺跡みたいですね!
1960年以降は主要エネルギーが石炭から石油に移行し衰退の一途をたどり、1973年に閉山。その頃2000人まで減っていた島民は離島を余儀なくされ「軍艦島」は無人島となりました。その後「軍艦島」は三菱マテリアルの管理のもと映画のロケなどに利用されたり、廃墟ブームによる不法な渡航者が増えていく問題を抱えていましたが、2001年に長崎市に譲渡され、正式に観光地化が進められて見学ルートや桟橋が整備されることで38年間の空白の刻を経て観光地としての新たな歴史を歩みはじめました。
写真:山崎 ナオ
地図を見るツアーやクルーズでも柵越しに見ることができる30号棟、ここは1916年(大正5年)に建てられた日本最古の鉄筋コンクリート建築です。この島で最も古い建物ということもあり老朽化が進み、いつ倒壊してもおかしくない状況だそうです。建築物が風雨や波風によってさらされ、朽ち果て倒壊するプロセスは建築業界では貴重なデータとなるため専門家からも注目を集めています。
中央が吹き抜けの回廊造りになっており、内部の1Fから見上げた様子は圧巻です。このような回廊造りやコの字に造られた建物の形状は、密集する住宅群において少しでも採光するための工夫と言えます。ここで住人たちの井戸端会議などが行われていたんでしょうね。
写真:山崎 ナオ
地図を見る周遊クルーズからも垣間見ることができる、この16号棟と59号棟の間にある階段は、最頂部の端島神社までを一気につないでいます。かなりの急こう配で上るのがしんどいからか島民からは「地獄段」と呼ばれていました。降りてすぐの踊り場が商店街になっていて、夕方ともなると高層住宅から地獄段を使って沢山の奥様が買い物をしに下りてくる様子も想像できますね。
※こちらは現在の見学ルートにはありません。
写真:山崎 ナオ
地図を見る地獄段を上って右手には16-19号棟が並列に並びます。ここにも採光の工夫がなされており中庭に向かってベランダが向かい合います。また、最も日当たりのよい屋上部分は菜園や保育園などに使われていたそうで限られた土地を有効に使っていたのです。いまでも草木が生い茂っており、目を閉じると屋上で遊ぶ子供たちの声が聞こえてきそうです。※こちらは現在の見学ルートにはありません。
最盛期は鉱員の賃金も高く、本土の人々より良い暮らしだったといいます。昭和の三種の神器といわれたテレビ、冷蔵庫、洗濯機をいち早く購入し、映画館、パチンコなど娯楽も充実し豊かな暮らしがここには在ったのです。
いかがでしたか?この島に訪れた栄枯盛衰の歴史、イメージ湧きましたでしょうか。そして最後にとっておきの想像をしていただきましょう。
軍艦島は正確には「産業革命遺産」として推薦されています。これが認められると軍艦島を文化財として保護することが義務づけられます。近い将来、現在の見学ルートが拡張され、島を1周できる日が訪れるかもしれませんね!そんなイメージもふくらませながら上陸ツアーや周遊クルーズをお楽しみくださいませ!
※掲載の地獄段、16-19号棟は一般の見学ルートには無いスポットになります。長崎市の職員の引率のもと行われる内覧会などでの見学となります。 ※この記事は「東京で長崎−ッ!と叫ぶ塾」の研修時に長崎市の許可の上で撮影したものです。
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(2024/12/3更新)
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