世にいう「秀次事件」は秀吉の歴史の中でも、特に暗黒の歴史として語り継がれているもの。歴史ドラマを見ていても、その悲惨さに「語り」だけで終わったり、触れずに通り過ぎているものもあるほどです。
秀次は秀吉の実姉・瑞龍院の長男であり、後に秀吉の養子として迎えられます。秀吉が齢53歳にしてようやく授かった男児「鶴松」を55歳で亡くし、老齢の秀吉は後継者に実子は望めないと判断。そこで秀次に関白職を譲り、豊臣家の後継者にしようと考えました。ここまでは良かったのです。
ところが秀吉57歳にして青天の霹靂とも言える男児「拾」が誕生!(のちの豊臣秀頼)すると、秀次を後継者にするよりも、当然実子「拾」を後継者にしたいのが、父親でもあり天下人秀吉の親心。すでに関白職は譲ってしまったし、秀次を後継者に指名してしまった手前、なんとか体裁を繕うよう画策しました。拾と、秀次の娘の婚約です。そして一旦秀次を後継者にさせた後、拾の成人を待って後継者を引き継がせるという形。
ところが秀吉は自分の老体や余命を考えると、拾に政権が正しく受け継がれるかどうか、見届けられないと判断します。そこから秀吉と秀次の確執が起こり始め、やがて秀次は「謀反」の疑いをかけられ高野山へと追放されたのでした。
高野山へ追放された秀次は出家し、なんと出家から約一週間ほどで切腹を命じられ命を絶ちます。享年28才でした。ここで本来ならば、素直に拾を後継者に据え、安泰となるはずが、そうはいきません。ここから壮絶な秀次一族の処刑が始まります。
秀次の死から半月後、秀次の首が晒された三条河原にて、正室や側室、侍女、秀次の子どもたち一族約39名が処刑されます。牛車に乗せられて市中を引き回された後、河原に晒されている秀次の首を見て、愕然としたでしょう。その前で、身分の高いものから順に処刑されたと言われています。秀次の遺児は6歳の男児を筆頭に4歳、3歳、1歳、9歳の女児の順に槍で刺し殺されたのだとか。
三条河原といえば処刑地として有名であり、当時は頻繁に処刑が行われていました。見物人も多く、処刑も日常風景だったはずが、この時ばかりは身も凍り、激しい嘔吐に襲われる見物人も続出。司馬遼太郎の「功名が辻」文中でも、「地獄とはこうか…」と身の毛もよだった一節が書かれています。
処刑された人々は近くの大穴に放り込まれ、畜生のような扱いで埋められました。その上には秀次の首を収めた石櫃が据えられ、建てられた塚には「畜生塚」、据えられた石櫃には「秀次悪逆」と掘られ、見せしめにされたのです。
処刑後、この塚には秀吉への恐怖から花を手向けるものは誰もおらず、行者であった「順慶」が唯一、そのそばに草庵を結び菩提を弔っていました。しかし鴨川の洪水で塚は流され、やがてその姿も歴史も風化しようとしていたのです。
1595年、秀次が自刃し一族が無残な処刑をされてから16年後、「京の三長者」と言われた角倉了以が、世に有名な「高瀬川開削」に着手します。この開削工事の際、なんと埋もれていた「秀次悪逆塚」が発見されます。憫然たる荒れ果てた塚の姿に、了以は私財をなげうって供養塔を建立。そして「慈周山瑞泉寺」と号したのです。
塚に掘られた「悪逆」の文字は削り取り、その上に六角形の無縁塔を建て、塚が掘り起こされた周辺を整備。実は了以の弟が、秀次のかかりつけの医者だったというのも、不思議な縁ですよね。
三条方面から木屋町を南に下り、数軒目。木屋町通りに面した場所に、ひっそりと佇んでいるのが瑞泉寺です。入るとすぐ右手正面につつじや紅梅の植えられた中庭があります。入ってすぐ左手には、東屋のような腰を掛ける休憩所とちょっとした資料館。
庭の前を進んでいくと右手には「消された家紋」があります。これは明治元年の神仏分離令による廃仏毀釈の大嵐の際、天皇家にはばかって、お寺が自主的に菊家紋を消したのだと言われています。お寺内の屋根にもいくつか消された家紋があるので、見つけてみましょう。
消えた家紋を右手に見ながら数歩進むと、「引導地蔵尊」があります。この地蔵は、三条河原で処刑される際、四条・大雲院の僧「貞安上人」が持ち込んだ木像の菩薩を安置した地蔵尊。当時、刑場の一角にこの木像菩薩を持ち込み、次々と処刑されていく一族たちに、極楽浄土へ行けるよう引導を授けたのだとか。そのお地蔵様へお参りすると極楽浄土へ行けるとされています。
そのまま奥へと進みましょう。ここに、秀次たちを弔う四十九柱の五輪卒塔婆があります。向かおうとする小道の手前に、まずズラリと文字の書かれた立札がありますので、目を通してください。どこに誰が眠っていて、どの順で何歳に処刑されたのかが書いてあります。きちんと誰かが書き留めておいたのでしょうか?不思議ですし、この辺りはもう空気が少し変わってくる気がしますね。
小道の奥に六角のお堂が見えますが、そこが秀次の御首を収めて中央に据えた中空の石櫃(首塚)。その両脇が処刑された幼児・妻妾や殉死した侍女らの供養場所。立札を見ながらだと良くわかります。六角のお堂の後ろ辺りに、処刑後次々にはねられた首や亡骸が投げ込まれた大穴があったとも言われています。
秀次事件にはまだまだ謎が多く、秀吉が切腹を命じたのではなく、秀次自らが謀反への潔白を証明する意味で自刃したという説もあります。さらに処刑された翌年には大地震が起こっていたり、秀次の祟りと言われる事象も多々見られるのだとか。
三条河原で処刑される場面を思い浮かべると、子どもたちはどんな思いで家族の処刑される様子を眺め、どんな思いで刃を受けたのでしょうか。瑞泉寺へ赴くと、なぜか身の引き締まる思いがしてなりません。
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