写真:乾口 達司
地図を見る八尾市大竹にある国指定史跡の心合寺山古墳(しおんじやまこふん)の名は、古墳の西側にかつて「心合寺」(しんごうじ)というお寺が存在したことに由来します(現在は廃絶)。付近一帯に広がる楽音寺・大竹古墳群の盟主というべき大型の前方後円墳で、その全長は約160メートル。中河内地域最大の古墳です。築造時期は5世紀のはじめ頃。この付近一帯をおさめていた王の墓であると考えられています。
ご覧のように、古墳のまわりには水をたたえた周濠がはりめぐらされていますが、等高線に沿って後円部を北側、前方部を南側に向けて築かれている上、東側と西側の周濠を区分けする堤が2箇所で設けられているため、古墳の西側よりも東側の濠の水位が高くなっています。傾斜地に築かれた古墳ならではの特徴であるといえるでしょう。
写真:乾口 達司
地図を見る1993年からはじまった発掘調査と2001年からの復元整備事業により、荒れ果てていた墳丘は築造当時の姿に戻りました。写真は前方部から後円部を撮影したものですが、築造当時は墳丘に無数の小石が敷き詰められ、土砂の流出を防いでいたことがわかります。平坦部には円筒埴輪もたくさん並べられており、築造当時の王の墓がどのようなものであったかを視覚的に理解することができます。
写真:乾口 達司
地図を見る心合寺山古墳が、5世紀のはじめ頃、この地を支配していた王の墓であると考えられているということは、すでに述べたとおりです。しかし、興味深いのは、埋葬施設としての役割を持つ後円部の墳頂を発掘した結果、東西に並んだ3つの埋葬施設(粘土槨)が発見されたこと。つまり、後円部には3人の人物が埋葬されていたのです。その位置や形状から考えると、もっとも重要な人物(王)の埋葬施設は中央のものであると推定されますが、さらに驚くべきは、後円部とは別に前方部からも新たな埋葬施設が発見されていることです。心合寺山古墳の場合、前方部の墳頂には東西5.8メートル、南北8.8メートルの方形壇が設けられており、人物を埋葬した後、その上で祭祀がとりおこなわれたと考えられています。
近年、誉田御廟山古墳や西殿塚古墳(奈良県天理市)などの大王クラスの前方後円墳において、埋葬施設をともなう方形壇が前方部に存在することが指摘されています。それにともない、埋葬施設は後円部に限られるというこれまでの常識が覆されつつありますが、墳丘への立ち入りが制限されている誉田御廟山古墳や西殿塚古墳などと違い、その方形壇を実際に自分の目で確かめることができるのは、心合寺山古墳の魅力であるといえるでしょう。前方部にもぜひご注目ください。
写真:乾口 達司
地図を見る墳丘からは、眼下に広がる大阪平野の眺めも楽しみましょう。心合寺山古墳がいかに眺望のよい位置に築かれているかが、おわかりになるでしょう。その点からも心合寺山古墳に眠る王の権力の大きさがうかがえますね。
写真:乾口 達司
地図を見る心合寺山古墳の西側には、八尾市立しおんじやま古墳学習館も存在します。墳丘をめぐる前にあらかじめここで予備知識を仕入れておくのも一計ですね。
心合寺山古墳が前方後円墳の構造や役割を学ぶのに格好のスポットであることが、おわかりになったのではないでしょうか。もちろん、足を伸ばせば、服部川地区には謡曲『弱法師』や説教節の『しんとく丸』の主人公・俊徳丸ゆかりの俊徳丸鏡塚などの古墳も点在しており、古代史散策にはうってつけのエリア。旅の途中、古墳めぐりを楽しみ、古代のロマンに思いを馳せてみてください。
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(2024/9/18更新)
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